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笠木たかし物語〜学校生活編

 私が通 っていた小学校は、全校児童僅か20数名の小さな学校でした。
先生は校長を含めて二人、教室も2つでした。授業は1・3・6年生と2・4・5年生とに分け、教師一人につき3学年が同じ教室で学習する、いわゆる複複式授業でした。
一度に3つの学年の授業を進めることから6年生は自習の時間が多くなり、自然と1年生に勉強を教えるようになりました。

 中学校も小学校と同じく教員は校長と他1人の2人だけで、授業はやはり複複式でした。高校受験を控えた中学校の授業を複複式で行うのには無理があり、学習進度は常に遅れがちでした。殊に英語については3年生卒業の時にまだ2年生の教科書の途中というありさまでした。

中学時代

 もちろん私だけではなかったはずですが、中学3年のころは薄暗いランプの中、ただでさえ遅れている授業を取り戻しながらの受験勉強は決して楽なことではありませんでした。
今の中学生のみなさんにはとうてい想像出来ないことかも知れませんね。


そんな中学生時代にも救いはありました。当時の若い中学校の先生はそうした生徒達のため放課後も進んで補習をし、進学についての相談も本当に親身になってくれたのでした。
この教師とのあたたかなふれあいこそが、その後の私の人生に大きく影響し「自分も教師になるのだ」という目標をもつ原点になったのでした。


そうした将来への希望を胸に秘め、薄暗いランプの明かりで懸命に勉強した私は1962年、同級生10人と共に無事卒業しました。
そして厳しい条件にもめげず努力を重ねた結果道立小樽緑稜高校に合格しました。


希望を胸に高校に入学した私は、同時にはじめての下宿生活を余儀なくされる事となりました。
余市の山間の村から出てきた私にとって小樽はまぎれもなく大都会でした。僅か16歳で親元を離れしかもはじめての都会暮らし。新鮮というよりも戸惑いの気持ちの方が強く、人知れず苦労が多かったのですが、下宿のおばさんが都会の生活についてやさしくときに実の母のように厳しく指導してくれました。
いまでも高校時代を思い出すと懐かしさと共におばさんへの感謝の気持ちで一杯になります。

駅にて

 このようにまわりの人のやさしさにも助けられながら「大学へ行って、教師になるんだ」という強い意思で毎日必死に勉強し希望の大学への合格を果たすことができました。


私が選んだ大学は北海道教育大学札幌分校、ここは国立大学で授業料が免除され、しかも奨学金が支給されました。6人兄弟の3男の私にとって浪人はなど出来ないし仕送りも最小限にしなければならない、そんな厳しい条件を満たす大学だったのです。


  私が大学に入学した年はベトナム反戦運動など盛んに学生運動が行われていました。入学後私はデモや集会に参加し自然と社会や政治に目を向けるようになりました。そして自らの生い立ちをも影響して「僻地教育研究会」というサークルに入り、農村調査や僻地学校の見学など精力的に活動し、農村生活でみる政治の非力、不公平と貧しさへの思いを募らせていきました。


どんなに働いても楽になれない農村生活を放置している社会や政治への疑問は、自らの体験とも合わせて大きく広がり、社会変革の必要性を強く認識させられました。
こうして積極的に社会問題に取り組んだ大学時代でしたが、4年生の私を待ち受けていたのは、思想信条による就職差別の問題でした。私は敢然とこれに立ち向かうことになるのでした。



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